歩いて行こう

主に読書録。勉強の備忘録も出てくるかもしれません。

「私」「名前」「存在」 (東京奇譚集 感想)

手始めに昔(2005年)書いた感想を、見苦しい部分を修正して掲載してみよう。
まだ見苦しいかもしれないけど・・。

 

今日の登場書籍

 

感想

 私は,村上春樹は短編から入っていった口である.
 中学生くらいの頃に「ノルウェイの森」や「国境の南,太陽の西」の書評を読んで,「ちょっと読みたくなるような作家ではないなあ」と感じたのを覚えている。最初に読んだのは「アンダーグラウンド」だったけれど,続けてほかの作品も読んでいこうという気にはならなかった。
 そんな私が「村上春樹っていいかも」と思ったのは,「蛍・納屋を焼くその他短編」所収の「踊る小人」からだ。自分の意思とは関係ない,暴力的な「何か」の存在。選択の余地無く,暴力的な何かに身をゆだねなければならない理不尽さ。こんなようなところが私の心を捉えた。
 今回読んだ「東京奇譚集」も,そんな翳の濃い作品が集まっていた。特に書き下ろしの「品川猿」が気に入った。

 

 主人公は近頃自分の名前を忘れてしまうことがよくあり,そのことに悩んでいた.悩みをカウンセラーに相談し,めでたく解決する。猿が彼女の名前を盗んだのが原因だったのだ…。話そのものはこんな筋だが(ちょっと突飛で受け入れられない人もいそうだ),ここに2つの重要なトピックが肉付けされる.1つは学生時代の知り合いの自殺。彼女は才色兼備で,一見なに不自由なく暮らしているように見える。しかし「嫉妬心」という心の動きにむしばまれていたのだ。もう1つは主人公は母親と姉にまったく愛されなかったと言うこと.
 これらのことと「名前」の関係は、名前を盗んだ猿の供述で明らかになる。それは「名前を盗むと同時に,名前に付帯するネガティブな要素をも,いくぶん持ち去ることができる」ということだ。これは,私はこう読みとった。「名前というのは便宜的な記号ではなく,その人自身であり,またそこに付随するネガティブな要素もいやおう無くその人自身のものだ」。

 

 以前の私であれば,「名前はその人自身の歴史だからね」と思っていたことだろう。それは今でもそうは思う。しかし一方で「名前と言うものの呪術性」というのもこの話からは読み取れ,気になるところである。なぜそう思うのかと言うと,主人公が愛されなかった理由も,学生時代の知り合いが嫉妬心を持っていた理由も,彼女らの生活からは全く発生し得ないもので、その人がその人(何某さん)であるためとしか言い得ないからだ。
 多少スピリチュアルな感じになってしまうが,人はこの世に生を受けた瞬間,もっと正確に言うと「この世の存在としての証―すなわち名前―を授かった瞬間に,何か(「業」だろうか)を背負わされるのではないだろうか。その何かはその人がその人たりえるためには必要不可欠であり,引き剥がしてしまえば,この世に存在することを許されなくなってしまう。すなわち,名前を剥奪されるのではないだろうか。
 このことは全く論理的ではなく,突飛な考えだ。自分自身でも何を訴えているのか良く分からない。しかしなんとなく感じる世界観なのである。

 

 最後にひとつ付け加える。このような感覚は、安部公房の「壁―S・カルマ氏の犯罪―」も想起する。名前を名刺に取られた「僕」はついには無機質な「壁」になってしまう.「名前」を失った以上,人間としての存在の権利(と言っていいかどうかは分からないが)を失ってしまったからだ。

 「名前」と「存在」。その関係は決して便宜的なものではない。

 

東京奇譚集 (新潮文庫)  

壁 (新潮文庫)