歩いて行こう

主に読書録。勉強の備忘録も出てくるかもしれません。

日本語を感じる本 その1

言葉の発達を感じるとき

 末の子どもが幼稚園に行き始めた。よその子供は時の流れが速いのに、自分の子どもについては「やっとかー」という気分だ。男の子ということもあってなのか、しゃべるのはいまいち上手くなく、2歳くらいまでは発達が遅いんじゃないかと妻がものすごく心配していた(私はのんきなのであまり心配していなかった)。それでもまあ、徐々には上手くはなってきて、それなりにコミュニケーションはとれるようになってきている。

 そういう「言葉の上達」を何で感じるかというと、一番わかりやすいのは語彙だろう。1歳で1語文をしゃべる、2歳で2語文をしゃべる、という感じ。3歳を超えれば語彙がもっと増えていくわけだが、質も少し変わってきて「ちゃんとした文になっている」というのがあると思う。例えば「ママはどこに行ったの?」のような感じ。

 同じような意味ならば「ママ、どこ行った?」という言い方もありうるが、前者の方がよりちゃんとしている感じがするがなぜだろう? その違いは「助詞」の有無である。動詞が入ることで文らしくはあるが、日本語においては助詞がきっちり入るとさらに「正しい」感が出てくると思う。

 助詞が使えていると「言葉の構造をちゃんと理解している」と感じられるのだ。

 

言葉の構造が身につくのは3歳くらい

 ということで、紹介本。

  • ことばの発達の謎を解く(今井むつみ ちくまプリマ―新書)
    ことばの発達の謎を解く (ちくまプリマー新書)

本書によると、以下のようなステップで言語を習得していくらしい。

  1. モノに名前(名詞)があることに気づく。
  2. 動きにも名前(動詞)があることに気づく。
  3. モノの性質の名前(形容詞)を学習する。

 本書ではここまでの解説であったが、この次には「動きの性質の名前(副詞)」の学習が入ってくるのだろう。

 名詞を学んでいくのは、実際にモノを指さして「これ何?」と聞くことで(あるいは指差しだけで)できるだろう。実際子どもにせがまれて「これは○○」「これは××」と説明することは数知れずあった。一方で、動詞を学んでいくのはどうしているのか? ここで文の構造(=助詞)が活躍するのである。

 次の2枚の絵を見せられたと想像してほしい(子どもの絵本みたいにカワイイウサギさんとクマさんを想像してください)。

  • ウサギとクマが2匹とも腕を回している。
  • ウサギがクマの背中を押している。

さてここで「ウサギがクマをチモッテいるのはどっち?」と聞かれたらどう答えるか? 「”チモッテいる”ってなんだよ!」と思うのは当然だが、動詞の意味がわからない子どもは日々そういう感覚をもって過ごしているわけである。なのだが、3歳くらいでも、「ウサギがクマの背中を押している」方の絵を選択するのである! なぜかというと、ちゃんと「〇〇××△△している」という文の構造を、助詞をキーにして理解しているからである。3歳児ぬごい。そしておそらく、様々な局面での用法から動詞の意味を推測し、正しさを確信していくのだろう。

 

英語だったら・・?

 本書を知ったのは、NHKの語学雑誌で、そこでも上記の例が述べられていて「おお、これは面白い!」と思って読んだのだった。

 日本語ならば構造解析のキーになるのは助詞。では英語ならば何であろうか? 多分「語順+前置詞」なのではないかと思う。前置詞(不定詞も含むかも)の後の言葉は「文の核」にならないので、それを除いた単語の語順で判断する。こう書いてて気づいたのだが、英語の文が(素早く)読めない原因の8割がたは「どれが動詞なのかわからない」ではないか。そういう意味でも「文の構造」を把握することの重要性がわかる。

助詞は難しく、不思議

 3歳児で助詞の性質に気づく一方で、助詞を正しく使いこなすのは大人になっても結構難しい。いわゆる「てにをは」というやつである。40を過ぎてもいまだに「てにをは」がおかしい文章を書いてしまう。「を」がいいのか「に」がいいのかに迷ったり、「は」がいいのか「が」がいいのかに迷ったりしないだろうか?

 次回は「助詞」の奥深さを教えてくれる本を紹介することにしよう。

 

 

 

 

 

「私」「名前」「存在」 (東京奇譚集 感想)

手始めに昔(2005年)書いた感想を、見苦しい部分を修正して掲載してみよう。
まだ見苦しいかもしれないけど・・。

 

今日の登場書籍

 

感想

 私は,村上春樹は短編から入っていった口である.
 中学生くらいの頃に「ノルウェイの森」や「国境の南,太陽の西」の書評を読んで,「ちょっと読みたくなるような作家ではないなあ」と感じたのを覚えている。最初に読んだのは「アンダーグラウンド」だったけれど,続けてほかの作品も読んでいこうという気にはならなかった。
 そんな私が「村上春樹っていいかも」と思ったのは,「蛍・納屋を焼くその他短編」所収の「踊る小人」からだ。自分の意思とは関係ない,暴力的な「何か」の存在。選択の余地無く,暴力的な何かに身をゆだねなければならない理不尽さ。こんなようなところが私の心を捉えた。
 今回読んだ「東京奇譚集」も,そんな翳の濃い作品が集まっていた。特に書き下ろしの「品川猿」が気に入った。

 

 主人公は近頃自分の名前を忘れてしまうことがよくあり,そのことに悩んでいた.悩みをカウンセラーに相談し,めでたく解決する。猿が彼女の名前を盗んだのが原因だったのだ…。話そのものはこんな筋だが(ちょっと突飛で受け入れられない人もいそうだ),ここに2つの重要なトピックが肉付けされる.1つは学生時代の知り合いの自殺。彼女は才色兼備で,一見なに不自由なく暮らしているように見える。しかし「嫉妬心」という心の動きにむしばまれていたのだ。もう1つは主人公は母親と姉にまったく愛されなかったと言うこと.
 これらのことと「名前」の関係は、名前を盗んだ猿の供述で明らかになる。それは「名前を盗むと同時に,名前に付帯するネガティブな要素をも,いくぶん持ち去ることができる」ということだ。これは,私はこう読みとった。「名前というのは便宜的な記号ではなく,その人自身であり,またそこに付随するネガティブな要素もいやおう無くその人自身のものだ」。

 

 以前の私であれば,「名前はその人自身の歴史だからね」と思っていたことだろう。それは今でもそうは思う。しかし一方で「名前と言うものの呪術性」というのもこの話からは読み取れ,気になるところである。なぜそう思うのかと言うと,主人公が愛されなかった理由も,学生時代の知り合いが嫉妬心を持っていた理由も,彼女らの生活からは全く発生し得ないもので、その人がその人(何某さん)であるためとしか言い得ないからだ。
 多少スピリチュアルな感じになってしまうが,人はこの世に生を受けた瞬間,もっと正確に言うと「この世の存在としての証―すなわち名前―を授かった瞬間に,何か(「業」だろうか)を背負わされるのではないだろうか。その何かはその人がその人たりえるためには必要不可欠であり,引き剥がしてしまえば,この世に存在することを許されなくなってしまう。すなわち,名前を剥奪されるのではないだろうか。
 このことは全く論理的ではなく,突飛な考えだ。自分自身でも何を訴えているのか良く分からない。しかしなんとなく感じる世界観なのである。

 

 最後にひとつ付け加える。このような感覚は、安部公房の「壁―S・カルマ氏の犯罪―」も想起する。名前を名刺に取られた「僕」はついには無機質な「壁」になってしまう.「名前」を失った以上,人間としての存在の権利(と言っていいかどうかは分からないが)を失ってしまったからだ。

 「名前」と「存在」。その関係は決して便宜的なものではない。

 

東京奇譚集 (新潮文庫)  

壁 (新潮文庫)

ブログ始めちゃった

 

ひじょーに今さら。。と思いつつ、ブログをはじめてしまいました。

というのも、ここ数年「読書メータ」で読書記録と簡単な感想を書いているのですが、たまにたくさん書いてみたり、ほかの本もひきあいに出しつつ考えをまとめてみたくなる時があったからです。

この場は、そんな思いで読書感想をつづることを中心に作って行きたいと思っています。

 

思えば読書記録をつけ始めてから25年以上がたちました。最初からExcelでまとめているので、今でもすぐ見れます(こういうのは、特定のサービスに乗っかりすぎないほうが良いですね)。さかのぼれば1994年の記録がでてきて、なかなか懐かしい気分に浸れます。まあ、真っ先に感じるのは歳を取ったな・・ということですが。

 さらに社会人になってから5~6年は、半年に一回程度、いくつかの書籍を取り上げてまとまった感想も書いていたりしました。不思議なもので、最初の方は割とあっさりとした書き方だったのが、だんだん自分の考え・知識や他の書籍との関連も含み始めて、分量が多くなってしまいました。それがしんどくなってやめてしまったのですが、この場はその習慣の復活も期待したりしています。

ほどほどにしないと開店休業状態になってしまいますので、題名どおり「歩いて」いきながらも、止まらないようにしたいな、と。